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喪失感(長文です) [本日のあれこれ]

9月20日木曜日夜8時8分
父が息を引き取りました。
家族に囲まれ苦しまず、静かにフェイドアウトするように・・・

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76歳でした。
肺癌ステージ4と診断されてから
たった4ヶ月・・・あっという間でした。

ほぼ毎日病院へ通い、できることはしてあげたつもりですが、まだまだ足りません。

元気な頃はしょっちゅう喧嘩をしました。
「クソジジイ!」なんて暴言も吐きました。

時間に縛られて、早く自由になりたいと思ったこともありました。

でも・・・
手に入れた自由よりも喪失感の方が大きくて
自由の代償は、酷く寂しくて悲しい現実です。

闘病中はすっかり優しいじいさんになり
常に感謝の言葉を述べ
周りに迷惑をかけることを嫌がり
私の体調も気遣ってくれました。

日に日に弱って行く父が可哀想で
辛くて苦しくて
なんとか元気になってもらおうと
あれこれ試みたものの
病魔は容赦なく襲いかかりました。

9月14日、京都で一番だと言われているホスピスに転院させてあげることができ
ここからまた毎日楽しく、音楽セラピーや大好きな花々に癒されてくれることと信じていましたが

17日、孫たちと過ごしホッとしたのか
次の日から意識がなくなりました。
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そこから3日間、朝から晩まで
(弟は夜中も泊まって)
ずっとそばにいました。

ホスピスですから、痛みや苦しみはすぐ取ってくれますから、亡くなる時は穏やかな表情でした。

後悔しないように頑張ったつもりだけど
まだあれもこれも、叶えてあげられなかったことがたくさんありすぎて涙が止まりません。

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ミントが、お供えのおみずを飲んだり
遺骨にスリスリしてるのを見てはまた涙・・・

ミントも人間に換算すると76歳。
すっかり仲良くなったのに。


以下、私の記録として経過を記します。

5月ゴールデンウィークは元気にあちこち出かけていたが、肩甲骨の痛みを訴え近所のかかりつけ医でレントゲンを。
怪しい影があるため市立病院を紹介される。

5月半ば、咳が出だす。
市立病院のレントゲンで、肺癌の疑いを指摘。

CT検査の予約をして、家族と一緒に来てくださいとのこと。

5月29日 左胸に雪だるま型5・5センチ大の悪性腫瘍がある。右肺にも散らばっていてかなり進行していること、手術はできないことを告げられる。

30日 全身の転移を調べるためのPET検査。

6月7日、8日 入院して気管支鏡検査。

咳がだいぶ酷くなる。咳止め効かず。
肩甲骨から胸に痛みは移行し、息切れも激しい。
医療用麻薬で痛みを抑える。

18日 全ての検査結果の元、肺腺癌ステージ4
        脳幹への転移も認められる。
19日 放射線説明 27日から入院予定

21日 日付が変わり真夜中ブザーで呼ばれ父の部屋へ行くと倒れており、救急車を要請。
9度近い熱と血液の酸素不足
即 市立病院呼吸器内科に入院。
肺に膿が溜まっていた。

そこから1ヶ月、高熱が続く。
抗生物質で下がらないのと、レントゲンではきれいになっているので、腫瘍熱であろうということで
ステロイド投与。

28日から放射線、20回。
   食欲がなくなる。吐き気、味覚障害など。

51キロあった体重は47キロに。
「もう死ぬかも」と泣きながら電話がかかってきて慌てて病院にかけつけることが増える。

しかし、放射線のおかげで痛みはマシになり
咳もピタッと止まった!
 
8月脳への放射線、10回
この頃から、さらに精神的に弱くなり泣き言や、怒りっぽくなったり。
心理カウンセラーをつけてもらう。

立ち上がるのはもちろん、座っていることすらできなくなる。

主治医から、あまりに体力が落ちすぎてこのまま抗がん剤治療をするのは危険だと告げられる。

最初の見立てでは治療がうまくいけば年単位で生存可能だったか、今の様子では数ヶ月しかもたないと余命宣告を受ける。

ソーシャルワーカーと主治医との面談で
緩和ケア病院(ホスピス)に移ることを薦められる。

私的にはきっとホスピスと聞くと父は死をイメージしてしまうので、希望を持たせるためになんとかここにおいてほしい、或いは別の病院ではダメなのか、と相談。

今から思えば、ここで決断できなかったことを悔やむ・・・
とてもいいホスピスだったのでもっと早く転院させてあげればよかったと・・・

13日 薬師山病院見学。とてもいいところだけどうちから遠いので通えないと言う理由と、先に述べたように父にホスピスとバレたくない配慮で一旦保留に。

16日 M病院の緩和ケアの説明を聞きに行く。
ここも良い病院で自転車で通えるのが利点だが
最終段階にならないと受け入れられないとのことで諦める。

その頃から右肩が痛いと言いだす。

8月末 脳腫瘍のせいか、入院が長いせいか、ボケたことをよく言うようになる。
かなり痩せてしまい、放射線で髪は抜け落ち、別人のような姿に泣けた。

ホスピスとは言わず、リハビリ施設だということで、薬師山病院の話をすると
そんなに良さげな所なら早く行きたいと言う。

緑に囲まれて、とても良い雰囲気であること
音楽セラピーがあること
お部屋に花を届けてくれること(父は草花が好き)
個室なので気兼ねなく餃子でもラーメンでも食べられること
映画のDVDも見られること・・・などなど。

29日 薬師山病院の面談と申し込み。

この頃には右腕を触るだけで痛がる。
MRIの結果、骨にも転移。
全身あちこちに癌は散らばっていた(´;Д;`)

9月2日 元気そうだったので車椅子で散歩。
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旦那が協力的で随分助かった。

味覚障害が少し改善され、友達から頂いたチーズケーキや天津飯を食べて美味しいと。
このまま体力が回復してくれるかと期待。

うとうと眠っていることも増えた。
薬師山はまだか、と待ち焦がれるように・・・
でもまだ部屋の空きがなくて待機。

9月14日 やっと薬師山病院に空きが出て移れることに。
ストレッチャーつきの介護タクシーで市立病院から40分ほど。

ホテルのような建物にテンションが上がった様子。
ご飯も美味しいと言うが実際食べたのは数口[あせあせ(飛び散る汗)]

15日 初の音楽セラピー、ホルンのアンサンブルを聴く。

ええ病院やなぁと喜んでくれる。

唯一の栄養源であるバニラアイスも半分ほどしか食べられなくなる。

17日、弟家族と一緒にサロンで賑やかに過ごす。
時々意識が飛ぶ。
話の途中で、うとうとしたり。

病院を出るとき、琢也に
「東京まで気をつけて帰りや」とはっきり言い別れを惜しんでいた姿にまた涙[あせあせ(飛び散る汗)]

18日 早朝に薬師山から電話。
     大量の下血をし、血圧が下がり脈拍も薄く
    危険な状態なのですぐに来てくれと。

弟にも連絡をし、かけつける。
意識はなく、時々呼びかけに反応する程度。

止血剤を点滴するも出血は止まらず。
口から栄養が入らないので点滴で。

主治医からの説明がある。
これだけの転移があるので、腸への転移も疑われるが、こんな状態で検査をするのは可哀想なのでしません、と。

あと、可能性として、原発癌が大動脈に食い込んでいたので、それが原因かもしれないと。

どちらにしても、ここではもう痛みと苦しみを取ってあげることしかできません、と説明を受ける。

そもそもホスピスは、緩和ケアが目的であり
延命治療はしない方針。
人間らしく自然に尽きて頂きます、とのこと。

その日はなんとか血圧も安定したので
弟に泊まってもらって私たちは帰った。

次の日、朝行くと私の声に反応し、手を上げた!
ピアノ演奏を一緒にサロンで聴いてるときも
知ってる曲が流れると手を動かし、リズムをとってるようだった。

部屋に戻ってからも、父が自分で編集したfavorite songをiPodから流す。

大好きなsing sing singや、ベンチャーズの曲で反応する。

この様子だときっと1週間は大丈夫かなと安心してその夜も帰った。

20日 一応朝7時、様子を電話で聞くと、落ち着いてるとのことなのでゆっくり支度をしていたら
10時過ぎに急変したと電話が。

すぐにまた旦那と弟に連絡してかけつける。

「今日は雨が降ってるえ」と声をかけると顔をしかめた。

反応がある。
大丈夫。

でも・・・担当の看護師さんは夜までは持たないでしょうと。

お昼が過ぎ、夜が来た。
看護師さんが、ラーメンでも出前しますか、と言ってくれてサロンで食べていると
慌てて呼びに来られ

「もう1時間も持たないと思いますのでお部屋に戻って見守って上げてください」と・・・

え?そんな感じしないのに?
さっきと変わらないのに?

一晩持ちそうな様子に見えるのに・・・?

看護師さんが「お父様はなんの飲み物が好きでした?」と聞くので、コーヒーですと答えたら

「それでは入れて上げてください。
コーヒーでお口を湿らせてあげましょう」

心なしか美味しそうな表情をした。
・・・ように見えた(ノД`)

運悪くiPod の充電がなくなり、私のiPod に入っている中でも父も好きだったSMAPを流してあげる。

だんだん呼吸が緩くなる。
感覚があく。
吸う力が弱くなり
最後は喉仏が2、3回動き
止まった・・・

呼びかけにも答えない
ずっと痛かった右肩を撫でてた
寝てるみたいだけど息はしてない

看護師さんが脈を確認し
先生を呼びに行く。

悲しくて辛い瞬間
だけどみんなで看取れた安心感
苦しみから解放されたであろうと信じる。

そこから23日の告別式まで
長い長い1日が繰り返され
1週間経ってようやく私はテレビをゆっくり見られるようになりました・・・


そして何より、もうスマホを肌身離さず持ってなくてもいいんだ、という解放感と寂しさの背中合わせ感・・・

(でも未だに誰かの着信音にドキドキする)

お通夜に来てくれた友達、お供えを送ってくれた友達、ありがとう。

自治連合会や、体育振興会、防災なんちゃらなど地域のいろんなかことをしてたので
お通夜にはたくさんの人が集まってくださりました。

こんな派手にせんでええ、と言ってそうですが。

やれるだけのことをしてあげようと。

余命数ヶ月と言われてから1ヶ月でした。
こんなに早く逝ったのは
長引いて私に迷惑かけたら可哀想と気遣ってくれたのかと思うと涙が止まりません。

思い出されるのは、私が父に悪態ついたことばかり。
謝りたくてももう遅い
たった4ヶ月の看病ぐらいじゃ償えない
もっと生きてほしかった
喧嘩しても生きててほしかった

自由がこんなに苦しいなんて
悪口ばかり言ってごめんなさい

育ててくれてありがとう。







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